NEOぱんぷきん2023年8月号「好きです遠州」
中泉御殿跡にあった東照宮
東照宮は徳川家康公をお祀りする社です。過去に廃絶されたものも含めると700社ほどが全国で造られたと考えられていますが、明治維新後のいわゆる神仏分離やそれに伴う混乱期に、廃社や合祀が相次ぎ、現在では全国で130社ほどの東照宮が存在していると言われています。徳川家康公が1616年に駿府城で薨去し、その遺骸は久能山に運ばれ、江戸幕府は同年12月に久能山に東照社を創建しました。1617年、朝廷は東照社に「東照大権現」の神号を宣下しました。また幕府は家康公の遺言の通り日光にも東照社を建立し、一周忌に遷座祭りを挙行しました。その後、東照社は1645年に「宮号」の宣下があり東照宮と号するようになりました。徳川家光公は、各地の徳川・松平一門の大名家のみならず諸大名に東照宮の造営を薦めたこともあり、全国に東照宮が建てられました。
磐田市中泉に鎮座する府八幡宮様の境内の北西隅に東照宮が祀られています。『府八幡宮ものがたり』によれば、東照宮はもともと磐田駅の南にあった御殿山の麓に祀られていました。御殿山は現存していませんが、御殿遺跡公園の南西あたりにあったと言われています。自然の山ではなく、徳川家康公が築いた中泉御殿の堀を掘った土で造られた土塁の一部と考えられています。中泉御殿は1670年に廃止され、御殿の跡地は地元民の手によって開墾されました。『中泉町誌』は、地元民が家康公の御殿があったという由緒を示すため御殿山の麓に1671年に東照宮を祀ったことが創始であると記しています。一方で『府八幡宮ものがたり』には「小笠山小笠寺住職、慶存建立したる東照宮 社殿の図」が残っているとの記載があり、小笠山小笠寺三仭坊の慶存住職が創祀したとも考えられます。なお、慶存住職は1690年に亡くなっていることから、それ以前に東照宮は祀られていたと推測されます。江戸時代に既に民衆の間でも東照信仰が存在し、御殿跡地の開拓を進めた地元民から東照宮勧請の機運もあったとは考えられますが、江戸時代中期の東照宮勧請には江戸幕府の許可も必要であったとの記録もあることから、当時、大名の格式を誇り、中泉御殿の鬼門の守りを任され、現在の磐田駅のあたりにあったと考えられる小笠山小笠寺の慶存住職が、幕府に願い出て東照宮を勧請したと推察します。なお、東照宮には江戸時代初期の狩野派の絵師である狩野安信筆による龍の墨絵の天井画が本殿の天井に現存しています。東照宮の過去の拝殿は絵天井で飾られ、43センチ四方の板に、桜、菊、水仙、萩、稲穂、ススキ、アヤメ、ナデシコ、朝顔などが描かれており、これらの天井板は現在も大切に保存されています。『遠淡海地志』を著した山中勘左衛門豊平は1835年(天保6年)東照宮を参拝し「高からぬ山、平地より少シアガル、小松有り、昔の夢ならず、城山、東照宮社、小社八九尺四方、石鳥居、額、東照大権現、石手水、鉢アリ、古松、一樹アリ、此木ノミ往古ノ木ト云々、ゲニ古松なりという」と記しています。
徳川幕府が倒れ、徳川家が静岡藩として移ってくると、現在の御殿地区に幕臣が移住し、東照宮を管理したと『中泉代官』に記されています。なお、中泉には300名もの幕臣が移り住んだとのことです。明治2年には、後に郵便制度を創設する前島密翁が駿河府中藩の中泉奉行として赴任します。中泉には8か月ほどしか居なかったのですが、この間に、前島密翁は東照宮の社名額を書き、奉納しています。なお、前島密翁は貧しい人たちを助ける中泉救院や幕臣の子弟の仮学校を西願寺に開くなどの事績を残しています。明治6年、一社一村令のため、東照宮は御殿山から府八幡宮の境内に遷座されます。当初は神宮寺跡(現在の社務所の場所)に祀られていましたが、明治45年に現在の場所に移転しました。
府八幡宮に祀られている東照宮は、徳川家康公と中泉とのご縁、江戸時代の民衆の東照信仰を現代に想起させるとともに、幕末明治の動乱期を生き抜いた前島密翁に思いを馳せる「中泉東照宮」「遠江府八幡東照宮」とも言うべき、地域おこしに活かすことが出来る、他に類を見ない歴史・文化遺産であると思います。
小山展弘