NEOぱんぷきん2023年6月号「好きです遠州」
名君と称えられた横須賀藩主―西尾忠尚公

毎年4月に遠州横須賀では、「遠州に春の訪れを告げる」と言われる三熊野神社例大祭が斎行されます。三熊野神社祭典の際のお囃子は、横須賀から遠州各地に広がりました。現在でも保存会の皆様や横須賀高校郷土芸能部の皆様によって、お囃子は継承され、遠州各地に影響を与え続けています。また、三熊野神社例大祭では「祢里」と呼ばれる山車の引き回しが行われます。「祢里」は高さ約6メートル、二輪の露店屋台に一本柱を立て、幕の張られた笠、提灯、華やかな紙花と人形の飾りつけが行われ、「一本柱万度型」と言われています。「一本柱万度型」の山車は「神田明神祭礼絵巻」に描かれている山車と酷似しており、「江戸天下祭」の流れを汲んでいると考えられていますが、「江戸天下祭」の山車やお囃子を遠州横須賀に伝えたのは、幕府の要職を歴任し、江戸暮らしが長かった横須賀藩主の西尾忠尚公であると言われています。なお、岸澄雄さんによれば、横須賀藩の江戸上屋敷は、現在の霞が関の農林水産省の位置にあったことが確認できるとのことです。

忠尚公は、1689年に生まれ、1713年に家督を継いで藩主となります。『大須賀町誌』などによれば、忠尚公は、英明の聞こえが高く、1732年に奏者番と寺社奉行を兼任し、1734年には若年寄、1746年には老中に任じられます。一度、老中は退任しますが、1751年から9年間にわたり再び老中に任じられ、老中在任中の1760年に病により亡くなります。忠尚公が老中職にあったのは、8代将軍徳川吉宗公と9代将軍徳川家重公の時代です。忠尚公は生涯で5千石を二度加増され、横須賀藩は2万5千石から3万5千石になりました。忠尚公は勇壮なことを好み、鷹狩や花火、相撲見物を楽しみ、『浅羽町史』によれば領民から「おらが殿様」として慕われたと伝わっています。墓所は龍眠寺にあります。

西尾忠尚公の逸話に「西尾様の名裁判」があります。NPO法人とうもんの会による『とうもん』に寄稿された土屋長三郎さんによれば、金剛峯寺と紀州徳川家の高野山の所有をめぐる争いで、紀州徳川家は「高野山は紀州家の領内にあるから紀州家の領地」と主張し、高野山は「高野山は徳川幕府のずっと以前から金剛峯寺のものであった」と主張していました。この問題の解決を任された忠尚公は、当初、頭を抱えていましたが、この争いは江戸市中でも巷間の話題となっていたため、そのような噂話の中に解決のヒントがあるのではないかと考え、下役人で気の利いた者を市中に遣わして情報を集めさせました。下役人は風呂屋で「武士は面目を立てることを第一とし、僧侶は面目よりも内容に重きを置く。まず、紀州家の面目を立てて高野山を紀州家と山とし、その上で紀州家から高野山に寄進すれば、紀州家の面目も立ち、高野山の僧侶も納得するだろう。こんなことは町人ならたやすく裁けるのに…」という話を聞き、それを忠尚公に報告しました。忠尚公はこの案をもとに老中として裁決したところ、紀州家も高野山も納得し、円満解決されたと伝わっています。江戸時代の身分制度を考えれば、町人の噂話から長年の懸案解決のヒントを得るという発想はなかなか湧かなかったと考えられ、忠尚公は比較的、身分制度等の固定観念に囚われない藩主だったのではないかと想像されます。また、領民から「おらが殿様」と慕われ、江戸天下祭を遠州横須賀に伝えるなど、おそらく町人に対しても気さくな藩主であったとも想像されます。

遠州横須賀の「横須賀凧」は、「巴」「とんがり」「べっかこう」など20種類以上の多彩でユニークなデザインがあります。この横須賀凧は忠尚公の加増を祝って揚げられたことがルーツと言われています。凧にまつわる忠尚公と思われる逸話が残っています。槍働き一筋のある家臣が槍の穂先袋をデザインに凧を作り、殿様はそれを気に入って「とんがり」と名付け、城下でも大流行しました。ある時、凧見物に来ていた殿様の子供に「とんがり」が当たってしまい、顔にケガをさせてしまいました。城内では妬みもあり、少なからぬ家臣が「とんがり」を考案した家臣を責め立て、その家臣は切腹して詫びようとしたところ、殿様が駆けつけて「とんがり」の尖った部分を切り落とし、咎めなしとしたと伝えられています。

小山展弘