NEOぱんぷきん2023年5月号「好きです遠州」
今川了俊―「難太平記」を室町時代初期を描く大河ドラマに
2023年の大河ドラマ「どうする家康」では、これまでの戦国武将たちの一般的なイメージと異なる人物像が描かれています。主人公の徳川家康公も、山岡荘八原作の「徳川家康」の描き方に比べれば、迷いが多く、頼りない、しかし、自分の力不足なところを率直に認めつつ成長していく人物像として描かれているように感じます。瀬名姫(築山殿)については、これまで嫉妬深く、気位が高い悪女として描かれてきたケースが多かったですが、今作では、おっとりとした(「天然?」)人物として描かれています。しかし、一般的なイメージと最も異なって描かれているのは今川義元公だと思います。これまで今川義元公は、公家風の軟弱な人物として描かれ、桶狭間の戦いで圧倒的な戦略差があったのに油断して敗北し、織田信長公の引き立て役のように描かれてきました。しかし、今作では、武力のみによる支配ではなく、徳による統治の「王道政治」を目指し、戦乱の世を終わらせようとする理想を持った人物、「国の主は大名や将軍や天皇ではなく民衆である」と考える人物として描かれています(人格者に描きすぎな気もしますが…)。徳川家康公の人生は、三河で生まれ、駿府でいじめられ、今川家から独立して駿河や遠江を従え、織田信長公の天下統一(天下布武)の延長線上に江戸幕府を開いたというストーリーで描かれることが多かったように思いますが、今作では「今川義元公が目をかけて成長を促した家康公の幼少期の駿府の日々が、家康公の人格形成に大きな影響を与えた」「家康公によって開かれる江戸時代の起点の一つは駿府や静岡にある」と描かれているように感じます。それは徳川家康公は織田信長公と今川義元公の両方の特徴や考えを受け継いでいる描き方であるとも感じます。
今川義元公が「王道政治」を目指したとする描き方の根拠はどこにあるのでしょうか(勿論、実際の歴史上の今川義元公は、仮に王道政治のような理想を一方で持っていたとしても、それと相容れない側面、当時の一般的な支配や統治を行っていた側面もあったことは言うまでもありません)。当時の、儒学、天道思想や禅の教えの影響を受けていたことが考えられます。そのうえで私は、以前に当コラムでも書いたことがありましたが、今川家最高の知識人であり、幕府高官として活躍し、九州探題として25年間にわたって九州を支配し、南北朝の統合に力を尽くし、勘合貿易を興した、今川了俊公の影響を受けた可能性もあるのではないかと考えております。今川了俊公が書き残した「今川状」や「難太平記」は、了俊自身が「子孫のために書き残す」と記しており、義元公が「難太平記」を読んでいた可能性は高いと考えられます。難太平記には、応永の乱で挙兵した大内義弘公や、それに呼応した足利満兼公について、「天下万民のための御謀反」と記し、足利義満公の統治を強く批判しています。川添昭二氏は『今川了俊』の中で、もともと、幕府に尽くし、幕府に従うことが、武士のみならず朝廷や民にとっても最善と考えてきた今川了俊公が、幕府や朝廷といえども、規範に外れた統治を行えば、天下万民のために放伐してもよいとする考えに転換をしたことを示すものと書いています。義元公が分国法「今川仮名目録追加」において、「己の力量を以って法度を申しつく」と述べ、当時の幕府権威を必ずしも認めず、実力主義の姿勢を示したことにも、今川了俊公の影響があるように感じます。また、読書好きであった徳川家康公も「難太平記」「今川状」を読んだ可能性も十分に考えられると思います。
ところで、今川義元公や徳川家康公にも影響を与えた可能性のある今川了俊公は、波乱万丈の生涯を送り、南北朝の統一や室町幕府の統治にも大きな影響を与えました。NHKの大河ドラマでは、室町時代初期は「太平記」以来描かれていません。大河ドラマの時代考証を多く手掛けられた小和田哲男先生に「今川了俊を主人公に難太平記を大河ドラマのテーマにすることは不可能でしょうか?」と尋ねたところ、「テーマとしては決して不可能ではないと思います。今川家のイメージを変えたいですね」と仰ってくださいました。今川了俊公を主人公に「難太平記」が大河ドラマとなれば、一層、郷土や先人達への理解が進むように思います。
小山展弘