NEOぱんぷきん2023年3月号「好きです遠州」
「遠府」の呼称を持つ、国府の置かれた町・磐田(中泉・見付)
「遠府」という呼称になじみのある方は少ないと思います。「遠府」とは遠江国府や国府周辺の集落を含めた地区のことを指します。甲斐国の国府は「甲府」であり、その名称は現在も使用されています。駿河国の国府は「駿府」で、現在では静岡市と名称を変えていますが、歴史小説などによく登場し、人口に膾炙しています。信濃国の国府は「信府」と呼ばれ、松本市のことを指しています。これらと同様に、遠江国の国府である見付は、かつて「遠府」とも呼ばれていたのです。「遠府」の呼称は古文書に記載が見られます。一つは室町時代に書かれた『常光寺年代記写』という文書で、嘉吉元年(1441年)に「今川氏が遠府城を攻めた」と記されています。もう一つは明治時代に活躍した赤松則良中将の長男である赤松範一氏が模写した絵図で「遠府之絵図 弘化三年(1846年)丙午五月」と記されています。この二つの文書から、少なくとも室町時代には「遠府」という呼称があったこと、その呼称は室町時代の特定の時期だけでなく江戸時代においても使用されていたと考えられています。確たる古文書はないものの、室町時代以前にも使用されていた可能性もあるとも考えられます。なお、私が「遠府」という呼称を知ったのは高校生の時で『日本城郭体系』の見付端城の項の「別名:遠府城」との記載を読んだ時でした。その後、「遠府」の呼称を見ることはありませんでしたが、令和3年7月の『磐田市文化財保存活用地域計画』に「遠府」の記載があり、個人的には「遠府」とは良い呼称だと思っていたので、大変嬉しく思いました。
遠江国府の所在地は、『磐田市史』によれば、10世紀前半までは中泉の磐田駅南地区にあり、10世紀後半以降に見付に移転したと考えられています。移転の要因については、温暖化により、中泉国府のすぐ南側に広がっていた内海の大之浦の海面が上昇し(平安海進)、国府施設の一部が浸水したためと考えられています。見付に移転した国府の中心施設たる国衙・国庁は、大見寺や見付公民館、磐田北小学校の近辺に存在したと推測されています。それが鎌倉時代の守護所、室町時代の見付城や見付端城・遠府城に引き継がれたと考えられています。当時は今之浦も内海のようになっており見付国府も海運の便の良い地に築かれたようです。鈴木小英さんの「遠江国府」や木村弘之さんの「律令期遠江国府復元」(磐南文化)によれば、国府も奈良や京の都と同様に方八町の条坊制が敷かれたと考えられ、東西南北の道は碁盤の目のような区画であったと考えられています。見付国府は東海道を南端とし、字北野を北辺、東は見付天神、西は淡海国玉神社を境としていたと推測されています。
中泉国府は、発掘調査で8世紀を主体とした遺物や国司の館(たち)もしくは迎賓館とみられる施設が発見されており、奈良から平安時代にかけて国府が存在したと考えられています。中心施設の「国庁」はまだ発掘されていません。木村弘之さんは前掲論文で国庁について「発掘調査が行われていない中泉寺やJR跨線橋の近辺の可能性が高い」と述べています。この地の北には国分寺・国分尼寺、さらに北には金光明最勝王経を埋納した光明山や霊山の秋葉山があります。また、中泉国府の地は、東に今ノ浦川、北に磐田原台地、南に大池・大之浦、西に東海道があり、「四神相応」の条件に合致し、京都の桂川に比すべき久保川も流れていることから、風水の理にかなったエネルギーが高い地と考えられたと思います。風水に凝った徳川家康公がこの地に御殿を築いたことも偶然ではないと考えられます。中泉国府の西には大宝院廃寺があり、大宝院は坂上田村麻呂が立ち寄ったとされる「大光寺」とも考えられています。「大光寺」は国府の付属寺院として他国にも散見されており、国府と関連があったと推測されます。また、遠江国二宮の鹿苑神社も中泉に国府があった881年に現在地に祀られたと伝えられ、国府を守る総社的な神社だったのかもしれません。
「遠府」の磐田市は、古代・中世では遠江国の中心であり、近世でも中泉には遠江国の天領を管理する代官所が置かれる政治的中心地で、見付も宿場町として賑わっていました。「遠府」という呼称で磐田の町を眺めると、また違った町の顔が浮かび上がってくるようにも感じられます。
小山展弘