NEOぱんぷきん2022年6月号「好きです遠州」
善導寺の大クス‐磐田駅前のパワースポット
浜松駅前にはアクトタワーが聳え、巨大なバスロータリーがあり、それらは浜松のシンボルとなっています。掛川駅前では、掛川のシンボルともいうべき掛川城天守閣を臨むことができます。磐田駅前には、樹齢700年とも推定される「善導寺の大クス」があり、駅前のシンボルとなっています。説明板には「樹高18.3m、根周は地面と接する部分で32.9m、胸高直径28.7m」と書かれています。全国でも、駅前に樹齢700年の大樹が聳えているのは磐田駅だけではないでしょうか。
大きな樹木が存在する場所は、それだけ大地のエネルギーが強い場所という考え方があります。風水でいうところの「龍穴」「龍脈」や「パワースポット」と考えられている場所です。古代の都や国府、中世や近世の城、神社や寺院は、陰陽師や風水師などが活躍し、エネルギーの高いと考えられた場所に建てられました。磐田駅南口周辺は、かつて遠江国府があったと考えられ、また、天下人となった徳川家康公が「中泉御殿」を構えた地であり、三仭坊大権現を祀る寺院もありました。磐田駅一帯が、パワースポットあるいはパワーエリアともいうべき場所と考えられていたと推測されます。ちなみに、かつて磐田駅の一帯は「屯ケ岳」と呼ばれていたようですが、これは関ヶ原の戦いの際に徳川家康公が大軍勢を率いて中泉御殿に滞在し、多くの兵が駐屯したことから名づけられたとも言われています。
玉光山善導寺は浄土宗の寺院で、磐田駅前都市計画整理事業によって昭和44年磐田市東大久保の現在地に移転するまでは磐田駅前にありました。移転前の善導寺の周りには、夜になると屋台が並び、賑わっていたようです。NEOぱんぷきん2019年9月号で小林佳弘先生が書かれた「善導寺の大樟のはなし」によれば、善道寺の開創は、旭光坊という僧が善導大師の像を背負ってこの地にやってきて、付近の大日の道場である某寺(大乗院?小笠寺?)にて念仏弘通し、数年後に、某寺の西南にあたる「楠樹の下に小院を立てた」ことが創始とも、1393年に旭光坊が亡くなった後に浄土宗の僧侶が旭光坊の命終の場所に善導寺を創建したとも記載されています。旭光坊の臨終の際には善導大師像が御声を発し、十念を授与したとの言い伝えもあります。なお、善導寺の沿革によれば、戦国時代に徳川家康公も善導大師の像を拝礼したと伝えられています。
善導寺の由緒には「楠樹の下に小院を建てた」とあることから、善導寺創建以前に大クスは既に存在していたことになります。樹齢などから鎌倉時代の1258年頃に植えられたのではないかと推定されています。大クスが植えられた動機について「磐田ものがたり」(磐田史談会編)によれば「徳大寺公の墓所の目印として植えられたのが始まり」と記されていますが、「磐南文化第二十五号」で故寺田一郎氏は、善道寺由緒によれば、先述のとおり寺の創建以前に楠は既に存在していたことになるので、徳大寺公の墓所が大クスの傍らに建てられたということではないかと推測しています。徳大寺家は藤原氏の名門であり、明治時代に徳大寺実則は華族に列せられ、侯爵を授けられています。徳大寺家の誰が中泉の地にやってきて、大クスのもとに葬られたのかは、その経緯を含めて詳細は分かっておりません。
善導大師は中国浄土教(中国浄土宗)の僧侶で、「称名念仏」を中心とする浄土思想を確立した人物と言われ、「終南大師」、「光明寺の和尚」とも呼ばれています。浄土の荘厳を絵図にして教化するなど、庶民の教化に専念しました。法然上人や親鸞上人に大きな影響を与えたと言われ、法然上人が専修念仏を唱道したのは、善導大師の「一心に弥陀の名号を専念して、行住坐臥に、時節の久近を問はず、念々に捨てざる者は、是を正定の業と名づく、彼の仏願に順ずるが故に」という文からと言われています。
建物は100年もすれば建て替えなどが必要になります。一方で、樹齢700年のクスノキを駅前のシンボルにすることは、いくら資金があっても一朝一夕にはできません。磐田市の誇る貴重な自然遺産「善導寺の大クス」を次の世代に大切に受け渡していきたいものです。
小山展弘