NEOぱんぷきん2022年5月号「好きです遠州」
孕石天神社-掛川市北部の子授けのパワースポット
孕石天神社様は掛川市孕石の原野谷川のほとりに鎮座されています。掛川市街地のほぼ真北に位置し、「ならここの里」へと続く県道からも境内を窺うことができます。うっそうとした木々に囲まれ、原野谷川のせせらぎも聞こえ、心癒される素晴らしい境内で、パワースポットの名に相応しいと感じます。ご祭神は天満大神(菅原道真公)です。学問成就もさることながら、「孕石」という社号や地名からも推察されるように、子授けや安産のご神徳で著名です。「遠江古蹟図絵」にも江戸時代から子授けのご利益のある神社として著名であったと記されています。孕石天神社様の社殿は大きな岩の上に建てられています。この大きな岩が「孕石」と呼ばれ、「孕石」を磐座として信仰したことが神社の創始ではないかと推察します。「遠江風土記伝」によれば「子持石」とも呼ばれていたようです。「孕石」には様々の卵型の小岩が顔を出しています。この小岩が岩肌から落ちていく様子を、まるで大岩から小岩(子供)が生まれているように見えたため、子授けのご神徳があると信じられるようになったと考えられています。牧之原市の大興寺の「子生まれ石」にも類似した信仰があります。「大興寺」では、住職が代わる度にまゆ型の石が出現する不思議な現象があり、「遠州七不思議」の一つにも数えられています。その石は住職の墓石ともなりますが、子供が生まれるように石が出現することから 「子授けの石」「安産の石」としても信仰されています。
孕石天神社様に参拝し、岩から生まれた小岩(小石)を借りて家に持ち帰って寝室に置き、孕石天神社様の「奉祈子授安産守護」のお札もお祀りすると子授けのご神徳を授かれると言われています。そして、子供ができた際にはその石を必ず返さなければならないとも言われています。地元の方によると、13年間も子供が授からなかった夫婦が孕石天神社様に参拝して子供を授かった話をはじめ、感激の手紙が数多く寄せられているとのこと。また、参拝して子供を授かったご夫婦の中には、赤ちゃんの写真を奉納する方もいらっしゃいます。その写真が拝殿の壁一面に貼られており、ご神徳の高さを窺わせます。
孕石地区にゆかりのある戦国武将に孕石氏があります。『掛川市史』などによりますと、孕石氏は掛川北西部の名族である原氏の分家です。原忠高公が、1439年(永享11年)の永享の乱で足利持氏公の追討に加わって戦功を立て、原田荘を賜り、孕石村に住したので、孕石氏を称するようになりました。孕石氏の中で最も著名な武将は孕石元泰公であると思います。孕石元泰公は、今川義元公の家臣として武功を挙げ、朝比奈信置公や岡部元信公と並ぶ駿河先方衆の一人に数えられていました。武田信玄公の駿河侵攻の際には、今川氏から離反して武田氏の家臣となり、武田氏による駿河平定戦で活躍し、蒲原城攻略戦では信玄公より感状を賜るほどでした。また、藤枝郷の堤防の再建に尽力したことも伝えられています。孕石元泰公は、天正7年(1579年)より高天神城の在番を命じられます。この時の高天神城主は、ともに今川義元公に仕えた、勇将の岡部元信公でした。高天神城は1580年から徳川家康公に攻められ、1581年3月、ついに落城します。岡部元信公は壮烈な戦死を遂げますが、孕石元泰公は捕らえられ、翌日、切腹させられました。降伏者で切腹を申しつけられたのは孕石元泰公一人でした。なぜ、ただ一人切腹を命じられたのでしょうか。孕石元泰公は今川家臣時代に、徳川家康公と屋敷が隣り合わせであり、鷹狩りが好きな家康公が放った鷹が、孕石元泰公の屋敷に獲物や糞を落とすこともあったので、度々苦情を申し立たようです。歴史小説などでは、この場面が誇張され、孕石元泰公が罵詈雑言を浴びせたように描かれることもあります。家康公は、この時のことに遺恨があったため、孕石元泰公のみに切腹を命じたのではないかと『家忠日記』『三河物語』には書かれています。なお、孕石元泰公の子の孕石元成公は、土佐山内氏に仕えています。
掛川市には、北部の孕石天神社と南部の三熊野神社と二つの子授けの神徳のある神社様が鎮座されています。これから子宝を授かるご夫婦は、どちらにもお詣りして、ご神徳をいただいてはいかがでしょうか。
小山展弘