NEOぱんぷきん2022年2月号「好きです遠州」
石橋湛山と「対米自主小日本主義」路線

石橋湛山は、静岡県選出(中選挙区時代の旧静岡2区)で初めて首相となった人物です。石橋湛山は、1884年に東京都で日蓮宗の僧侶の家に生まれました。生後まもなく山梨県に移り、旧制中学を卒業後、早稲田大学に進学。卒業後は、兵役等を経て東洋経済新報社に入社し、大正デモクラシーにおけるオピニオンリーダーの一人として、いち早く「民主主義」を提唱しました。また、アジアの独立運動やナショナリズムの高まりを察知し、帝国主義的政策から脱して、戦後を見通すような平和的な加工貿易立国論である小日本主義を唱え、台湾・朝鮮・満州の植民地放棄論を主張しました(「一切を棄つるの覚悟」「大日本主義の幻想」等の評論を著しています)。第二次世界大戦の終戦の日には「更正日本の進路〜前途は実に洋々たり」を著し、科学立国で再建を目指せば日本の将来は明るいとする極めて先見的な見解を述べました。吉田内閣の大蔵大臣となり「石橋財政」を展開しますが、戦時補償債務打切問題、石炭増産問題、進駐軍経費問題等でGHQと対立します。特に進駐軍経費は、ゴルフ場や邸宅建設、贅沢品等の経費を含み、日本の国家予算の3分の1を占めていました。石橋は負担軽減を要求し、GHQも日本の負担金の2割削減に応じましたが、石橋は第二次世界大戦において戦争協力をしていなかったにも関わらず、なぜかGHQより公職追放されます。これらは石橋が先述の件でGHQと対立したからではないかと考えられています。吉田茂は「狂犬にでも咬まれたと思ってくれ」と言ったようですが、石橋を守らなかった吉田に対して、不信感が生まれたと考えられています。

私は、修士論文をほぼそのまま出版した『脱占領時代の対中政策』の中でも述べましたが、吉田茂以降の戦後保守のドクトリンは、対米協調路線を基軸としつつ軽武装で経済発展を重視し、他国に対して大国的態度をとらない姿勢を特徴とします。「対米協調小日本主義」あるいは「対米従属小日本主義」とでもいえようかと思います。一方で、岸信介は「アジアの盟主日本」を印象付けることで、対米関係をより対等たらしめようとする「対米自主大日本主義」とでもいうべき対外姿勢を試みました。石橋湛山は、吉田や岸の姿勢とも異なり、米国との関係を壊すことはなくても、米国への依存を軽くし、米国への依存心をなくしていくことで日本の自主性の回復を試み、小日本主義を貫く「対米自主小日本主義」とでもいうべき外交路線を模索しました。吉田や岸や石橋の姿勢以外に、非武装中立による日米安保廃棄、核武装等の重武装による日米安保廃棄という、いわゆる「右」にも「左」にも急進的な「対米離反」路線がありました。ちなみに安倍首相以降の最近の日本の外交姿勢は、米国に過度に協調(従属)しつつ、一方で米国以外の国々には大国的態度をとろうとする「対米協調大日本主義」あるいは「対米従属大日本主義」とでも位置づけられようと思います。日本の人口減少、財政難、アジア諸国の経済的台頭の現状を考えれば、石橋湛山の「対米自主小日本主義」の外交姿勢こそ、日本が参考とすべき国家路線ではないかと思っています。

ところで、石田博英労相(石橋湛山の側近で石橋内閣官房長官)の政策担当秘書を長く務めた中島政希元衆議院議員によれば、石橋湛山は「いくら名論卓説を語っていても選挙に出て、あのトラックの上に立って演説する度胸のないヤツはだめなんだ」と語り、口先だけの政治家や評論家が大嫌いだったとのこと。中島政希氏の著書『政治史逍遥』によれば「石橋湛山も岸信介も壮大な国家ビジョンをもった大政治家だったが、それ以上に政策を実行するために泥まみれの権力闘争を恐れぬ胆力の持ち主だった」と書かれ、また石田博英労相は「石橋湛山という人は、いつも単騎出陣なんだ。多数を集めるために自説を曖昧にするというようなことはなかった。旗印を高く掲げて出陣すれば、遠からず味方は馳せ参ずる…だから番頭の俺はいつも振り回されていたよ。しかし一たび石橋に賭けたからには彼が決意して走り出せば俺は是非善悪、有利不利にかかわらずついていく腹はいつでも出来ていた。あの人を一人で行かすわけにはいかないからな。政治家は理屈じゃないんだ」と語ったと書かれています。単騎出陣の気概と勇気を持った石橋湛山、選挙区で選ばれてきた議員にどこまでもついていこうと思わせるその魅力も素晴らしいですが、支えることを決意し、それを貫いた石田博英も素晴らしいと思います。

小山展弘