NEOぱんぷきん2022年1月号「好きです遠州」
三熊野神社―子授けの神徳の名高い南遠を代表する古社
三熊野神社様と言えば、毎年四月第一週末に行われる遠州に春を告げる三熊野神社大祭が思い浮かびます。特に「子授け」のご神徳があるといわれ、大祭では「おねんねこさま」を抱く「神子抱き神事」という神事があり、毎年、多くのご夫婦で賑わいます。大祭の三社囃子と「祢里」とよばれる山車の引き回しも有名です。これらは、江戸中期の横須賀藩主で老中を通算十年も務めた西尾忠尚公が神田の三社祭を横須賀に伝えたことが起源です。
三熊野神社様は、同時期に創建された小笠神社様と高松神社様とともに1300年近い歴史を誇る古社です。社伝では、熊野三山に皇子の誕生の祈願を行った文武天皇と宮子妃が、無事に皇子(聖武天皇)を授かり、そのお礼に熊野三山の神々を遠江国に勧請して、701年(大宝元年)の創建と伝わっています。三熊野神社様のご祭神は、家津美御子神様、伊邪那美神様、事解男神様、速玉男神様と言われ、熊野本宮大社の神々をお祀りしたと言われています。明治以前は「総社三社権現」と称し、「三社様」「お総社様」とも呼ばれ、「横砂惣社」と記されたこともありました(横須賀は古くは横砂と書き、ヨコスカと読まれていました)。三熊野神社の神様のご伴神として遠江にいらした神々様も、五社でお祀りされています。その五社とは大渕の若宮神社(大雀命様)、熊野神社(今駒明神様)、十二社神社(千勝明神様)、西大渕の古楠神社(古楠天王様)、山崎の王子神社(若一王子様)です。これらのご伴神様の祭祀も絶えなかったことは奇跡的であると思います。
ところで、三熊野神社様は、小笠山山頂から遠州灘へむかって伸びる尾根の突端の場所にあります。ある風水師によれば小笠山を祖山とする龍脈の先端にあり、大地のエネルギーの高いと考えられる場所にあるとのこと。大須賀町誌によれば、勅命を受けた奥野是吉宮司は、宮地に相応しい霊地を求めて各地を探索し、現在の宮地を、南に海原が広がり、北には山々が連なり、「熊野本宮と異ならない絶好の地」として見出したと書かれています。城地の選定や縄張りに風水や陰陽道の考え方を取り入れていた徳川家康公も、横須賀城を最初は三熊野神社の北側の山に築こうとしたと言われており、小笠山から南に連なるこの山々には大地のエネルギーがあると当時の人々に考えられていたと考えられます。このような霊地に熊野大権現様はお祀りされたのですが、故にこそ、富士山本宮浅間大社の山宮神社様が富士山そのものをご神体としたり、大神神社様が三輪山をご神体としたり、磐田市の矢奈比売神社様のご祭神は磐田原台地をご神体とした地母神・産土神と考えられているように、もともと小笠山をご神体とする自然崇拝や地元神を祀っていた霊地に熊野大権現様をお迎えした可能性もあるのではないかと推測します。なぜならば、大須賀の地に豪族が存在した可能性があり、豪族が存在したのであれば、その豪族によって祀られていた地元神が、周辺で最もエネルギーが高いと感じられる場所に祀られていた可能性があると思うからです。神仏習合時代に三熊野神社様と関係が深く、神宮寺的な位置づけにあった普門寺様は、寺伝によれば三熊野神社創建のわずか三年後の704年に開山しています。大須賀町誌には「行基菩薩が千手の峯に立てたのがこの寺の創始」と書かれていますが、この時期の寺院は豪族の氏寺としての要素が強かったことから普門寺を建立するほどの豪族が存在したと考えられます。なお、旧大須賀町内には723年(養老七年)より薬師瑠璃光如来を祀ってきたとの言い伝えのある薬師寺も存在し、このことも古代豪族の存在を窺わせます。
浅羽郷土資料館の「遠州の霊山と山岳信仰」には、国分寺の創建以後、三熊野神社様も国分寺僧侶の山林修行の拠点の一つと位置付けられたと書かれています。紀州の大峰奥駆修行の拠点の一つに熊野本宮大社があるように、遠州回峰行の拠点の一つに三熊野神社様が見立てられたと推測します。中世には平宗盛や安田遠江守に神領を横領されましたが、鎌倉幕府執権の北条家により社領を回復しました。南北朝争乱の兵火を受けますが、斯波義廉により社殿は再建されました。戦国時代には、門前の市場は賑わい、横須賀城も築城され、以後、代々の城主の庇護を受け、領内の篤い信仰を集めたと伝えられています。
小山展弘