NEOぱんぷきん 2021年1月号 好きです「遠州」!光明山①―聖武天皇による納経の言い伝えもある水の神の聖地
光明山は、秋葉山、春埜山とともに「遠州三霊山」「北遠三霊山」と崇められた、標高539.7mの山です。NEOぱんぷきんの小林佳弘編集長の『遠江怪奇不思議談』によれば「光明山は天地開闢の初めから神仏の守護する霊場であり、昼は樹上に瑞気あふれ、夜は岩から光明を発し、遠州灘を行き交う船は光明山を目印にした」と言われ、山から光明を発することから「光明山」と名付けられたとの説もあるようです。
天竜区山東にある光明寺はもともと光明山頂付近にありました。昭和6年に火災で焼失したため現在地に移転しました。「光明山由来書」には、717年に行基菩薩が三満虚空蔵菩薩様、摩利支天様、十一面観世音菩薩様の像を自ら刻んで祀り、光明寺を開創したと記載されています。寺伝によると、ご本尊の三満虚空蔵菩薩様は、智、福、威信(能)の三つの利益を満たし、京都の法輪寺と伊勢の金剛証寺の虚空蔵菩薩像様とともに「日本三虚空蔵菩薩尊」といわれているようです。
727年には聖武天皇が光明山に金光明経六十四帙を納め、勅願寺と定めたと言われています。『遠江国風土記伝』では金光明経が納められたことが「光明」という山名や寺名の由来と記されています。聖武天皇による納経や勅願寺と定められたことは、光明山が遠江国分寺や遠江国府の真北にあたり、秋葉山~光明山~国府・国分寺を結ぶ古代のラインを形成し、国府や国分寺を守護する役割を持っていたのではないかとも推測します。
一方で、光明山には、当初、薬師如来が本尊として祀られていたとも考えられています。光明山中には「稚児の滝」などがあり、尾根筋から湧き出す水も豊富であることから水源霊山信仰や水神信仰が生まれ、水の浄土の教主である薬師如来様への信仰が始まったとする研究もあります(秋葉山の観音霊場と一対をなす信仰)。浅羽郷土資料館の「遠州の霊山と山岳信仰―その源流と系譜―」によれば、山頂から尾根筋を下ったところに旧「薬師門寺」(廃寺。現存せず)という光明寺の里宮ともいうべき寺がありました。旧「薬師門寺」の名前は、二俣方面から薬師門寺に至ると、はじめて光明山の姿を間近に拝することに由来します。旧「薬師門寺」の本尊で光明山の化身として長年秘仏であった薬師如来立像(浜松市指定文化財)は、現在も二俣の玖遠寺に伝えられ、光明山に薬師信仰があったことを伝えています。なお、遠江国分寺のご本尊も薬師如来様であり、国分寺建立の詔を発した聖武天皇による納経の言い伝えもあることから、国分寺との関連も推測されます。
東大寺の僧侶は、経典研究を半月行い、残りの半月で山林修行を行っていました。聖武天皇は仏教を地方に展開するため、東大寺と同様の修行や儀式を各国の国分寺で行わせました。遠江国においても国分寺の創建とともに山林修行の起点となる岩室寺が創建され、国分寺で経典研究が行われるとともに、遠江一円で山林修行が行われました。いくつかの霊地が山林修行の際の拠点や行場となり、それらが後に寺に発展したと考えられます。光明寺に限らず、「行基菩薩開山」の由緒は、国分寺の僧侶が山林修行の拠点とした霊地が後に寺に発展したことを後世に伝えるために、行基の名に仮託して開山伝説が創られたのではないかとも推測されます。浅羽郷土資料館の「遠州の霊山と山岳信仰―その源流と系譜―」によれば、光明山も遠州の山林修行の一つの拠点・行場として位置づけられ、光明山からは、岩室寺や本宮山、秋葉山などに道が通じていたようです。
光明寺は、平安時代以降は真言宗の山岳寺院として存在し、室町時代には奥之院に三宝摩利支真天様が祀られ、戦の神の祀られる寺としても崇敬を集めました。今川義元公や徳川家康公が深く帰依したと言われています。奥之院は光明山頂の北側の「鏡岩」という磐座にあり、近世からは兜摩利支天様も祀られました。兜摩利支天様は弘法大師作の香合摩利支天像と言われ、徳川家康公が保持し、出陣の際には必ず兜の内にご尊像を入れて加護を祈ったと伝えられています。天下泰平の後に、家康公は兜摩利支天様を光明山の三宝摩利支眞天様と合祀し、光明寺を徳川家御本家の祈願所とするよう命じたと伝えられています。
小山展弘