NEOぱんぷきん 2020年3月号・4月号 好きです「遠州」!遠江の景勝地、弁天島と浜名橋…「浜名の橋の秋の夕暮れ」
弁天島は、浜名湖の河口部(今切口)付近に位置し、正岡子規や松島十湖、茅原崋山などが浜名湖や弁天島の景色の美しさを歌に詠むなど、景勝地として知られています。潮干狩り、釣り、海水浴を楽しむ人も多く、1960年には温泉も掘削され、現在でも静岡県西部を代表する観光地です。弁天島は、もともと「西野」「狐島」と呼ばれていましたが、江戸時代中期(1709年)に弁天神社が建てられてから、「弁天島」と呼ばれるようになりました。弁天島には次のような天女伝説があります…。「かつて弁天島のあたりは、砂洲が新居の橋本あたりまで続く『天の橋立』のような白砂青松の美しい景色が広がっていました。その景色の美しさに魅かれたのか、天女が舞い降りてきました。村人は大変喜び、神社を建ててお祀りするから留まってほしいとお願いしますが、天女はどういうわけか駿河の三保の松原へと立ち去ってしまった」というものです。その後、大地震と大津波により洲崎の一部であった弁天島は海に取り残されて島となってしまいましたが、舞阪と新居を行き来する渡海安全と天女伝説にちなみ、島に弁天神社が勧請されたと言われています。天の橋立のような砂洲や青松…当時、どんな景色が広がっていたのでしょうか。室町時代の明応大地震では、多くの陸地が消滅し、村櫛半島が誕生するほど浜名湖の形が大きく変わりましたから、この天の橋立のような白砂青松がどこにあったのか、現在でははっきりと分かっていません。
古代から室町時代までは、浜名湖は外海とつながっておらず淡水湖でした。湖と海は「浜名川」という川でつながり、その川には「浜名橋」という橋が架かっていました。浜名橋が記されているもっとも古い文献は、日本書紀や古事記と並ぶ「先代旧事本紀」であり、日本を代表する名橋(四大橋の一つ)として「浜名橋」が挙げられています。平安時代の貞観四年の記録には、その長さが約168メートルもあったと記されており、少なくとも千年以上前に立派な橋が架かっていたと考えられています。この浜名橋は数多くの紀行文や歌に詠まれました。以前に「好きです遠州」で紹介した室町時代の武将の今川了俊は「なんとなく心にかけて思うかな浜名の橋の秋の夕暮」という歌を詠んでいます。了俊が九州平定に出征した際、遠江の国を思い、また遠江守護職の留任の保証を求めて管領の細川頼之に宛てて詠んだと伝えられています(その後、細川頼之からは了俊の遠江守護職留任を保証する返書が届きました)。「浜名橋」と言えば伝わるほど全国的に有名な橋であったことが窺われますし、その夕暮が実に美しい景色であったことが想像されます。
浜名湖岸には、平安時代の「延喜式」にて特に霊験著しいとされた「名神大社」に列した角避比古神社様が鎮座していました。名神大社は遠江国には角避比古神社様を含めて二社しかありません。その角避比古神社様は明応の大地震の津波で流されてしまい、また、地形も変わってしまったので旧鎮座地はよく分かっていません。一説によると浜名橋の近くにあり、多くの旅人が浜名橋を往来する際に参拝したと伝えられています。まさに浜名橋と浜名湖、そして角避比古神社一帯は、都にも聞こえた素晴らしい景勝地だったのでしょう。
ところで、現代の静岡県の代表的な観光地について他県の方に尋ねますと、その答えの大半は「伊豆(温泉)」と「富士山」で、いずれも県東部に位置し、旧駿河国、旧伊豆国にあたります。しかし、県西部の旧遠江国にも、浜名湖や舘山寺に限らず、この「好きです遠州」に書いてきたような素晴らしい観光資源・地域資源が多く存在します。観光や地域振興について考える際には、「静岡県の観光は富士山と伊豆で十分」と県単位で考えるのではなく、少なくとも「駿河国、伊豆国、遠江国」の単位で、それぞれの観光や地域振興を考える必要があるのではないでしょうか。県西部の観光はもっと振興がはかられてもいいし、何よりも私達住民が、遠州の観光資源や地域資源に気付き、発掘し、私達の手で遠州の観光を盛り上げていくことができると思います。住んでいる地域のことに気付くことは、その地を愛することにつながり、それが健全な郷土愛を育むことになると思います。
小山展弘