NEOぱんぷきん 2019年6月号 好きです「遠州」!「善光寺如来と遠州、鴨江寺」
「牛にひかれて善光寺」と言いますが、遠州は信州に近く、古来より多くの人々が善光寺に詣でたことでしょう。善光寺のご本尊は「善光寺如来」と言われ、一光阿弥陀三尊像(光背が一つの阿弥陀如来、観世音菩薩、勢至菩薩の三尊像)であり、仏教伝来の際に百済の聖明王から欽明天皇に贈られたと言われています。善光寺如来のご分身が全国に443体あり、その一体が、前号でご紹介した掛川市西大谷(旧大須賀町)の普門寺様に祀られています。
善光寺如来は、欽明天皇に贈られますが、飛鳥時代の排仏派によって二度も堀に沈められてしまいます。その後、信州よりやってきていた本田善光がこの仏像を発見します。この時、仏像が善光の背中に飛び乗ったという伝説がありますが、これは磐田市見付の見性寺の「一意一願不動尊」様の言い伝えにも似ているように思います。本田善光は仏像の安置を朝廷に願い出て、信州の自宅にお祀りしました。飯田市にある「元善光寺」がそれであるそうです。皇極天皇3年と言われていますから、蘇我入鹿が大臣として活躍していた時期です。
後日談があります。ある時、本田善光の長男が突然死亡し、驚いた本田善光夫婦は、一心に阿弥陀三尊像に祈ったところ、長男が生き返ったというのです。長男に、あの世のことを尋ねてみると「当家の阿弥陀様が閻魔大王に指示を出して、私を引き取ってくれた。その際に貴婦人が通りかかり、地獄の責めにあうという。この貴婦人が皇極天皇であると知り、自分が、天皇の代わりに責めを負うから、天皇を助けてほしいと阿弥陀様に懇願すると、二人とも救ってくれた」とのことでした。皇極天皇は後に斉明天王として重祚し、白村江の戦いの直前に崩御するのですが、いずれにしても、この逸話は大化の改新の後の話ではないでしょうか。皇極天皇は「7日7晩の地獄の責め」をなぜ負うことになったのでしょう?疑問の尽きないところですが、後日、都の天皇を訪ねると「その通りであった」と大いに感謝されます(ということは皇極天皇も生き返ったのでしょうか?)。本田親子は信州の地を賜り、長野市の現在の地に善光寺を建立したとのことです。この伝説から、善光寺の阿弥陀如来は「善光寺如来」と言われるようになり、不老不死の仏様と篤い信仰を得ることになります。
不老不死の功徳を得ると言われた善光寺如来は、戦国武将たちからも篤い崇敬をうけます。上杉謙信と武田信玄の川中島の戦いは、実は善光寺如来の奪い合いであったともいう人がいるほどです。謙信が奪って越後に善光寺を立てたかと思えば、その後、信玄が奪い返し、甲斐に善光寺を建立します。武田氏の滅亡後は織田信長が岐阜城下に善光寺を建て、善光寺如来を迎えます。本能寺の変の後、善光寺如来は徳川家康公の手に移り、なんと遠州の鴨江寺にやってきます。しかし、十余年後、善光寺如来が家康公の夢枕に立ち「余は善光寺に帰りたい」というので、祟りを恐れた家康公は甲斐の善光寺に戻します。その後、豊臣秀吉公が、京都の方広寺大仏の体内仏に善光寺如来を迎えましたが、「余は信濃に帰りたい」と秀吉公の夢枕に立ったため、やはり祟りを恐れた秀吉公は信濃に戻そうとしますが、翌日、息を引き取ります。そして、徳川家康公は長野善光寺平に善光寺を再建し、現在に至るのです。
ところで、浜松市の鴨江寺は行基菩薩が開山の古刹です。夥しい精霊に行基菩薩が泉の水を手向けて供養したところ、精霊は悉く成仏し、極楽浄土が出現したと伝えられています。その後、観音菩薩様の不思議な縁で結ばれ、富を得た「芋堀長者」によって伽藍が創建されたと言われています。当時、遠州の国府のあった中泉や見付から見て、天竜川を渡った西方に鴨江は位置したため、西方浄土に位置付けられたのかもしれません。
「死ねば鴨江に行く」との信仰から、現在でもお彼岸には多くの人が供養や参拝に訪れます。この「精霊が集まる地」と言われた霊験あらたかな鴨江観音様とともに、「死ねば善光寺に行く」との信仰のある善光寺如来様まで祀られていたわけですから、戦国時代、鴨江は大変な霊場と認識されたことでしょう。現在でも、鴨江寺の本堂には、本尊の聖観世音菩薩様の脇仏として善光寺如来様も祀られています。
小山展弘