NEOぱんぷきん 2017年11月号 好きです「遠州」!

皆さんは、「廃仏毀釈」をご存知でしょうか。明治政府は、江戸時代までの神仏混淆の信仰形態から、神社と寺院を分離する「神道分離令」「大教宣布」を出します。「神仏習合の廃止」「仏像の神体としての使用禁止」「神社からの仏教的要素の払拭」などが定められました。明治政府は、神社の神様とお寺の仏様を分けることを主に意図したと言われていますが、寺院が幕府統治の一翼を担っていた側面もあったことも影響し、結果的に仏教排斥の廃仏毀釈運動が起きてしまいました。この時、国宝級の貴重な仏像を始め、多くの仏像が破壊され、山や谷、池に捨てられました。興福寺五重塔は25円で売りに出され、薪になるところだったと言われます。多くの僧侶が還俗し(僧侶を辞め)、公務員や教員、神官になりました。特に、神と仏のどちらも尊いものとして進行する修験道や密教が大きな被害を受けました。

磐田にも廃仏毀釈の波が押し寄せます。明治政府の命令により「地域の鎮守様」も神社庁に登録しなければなりません。修験宗として始まった西新町の愛宕神社は、神仏習合の「神社」でもあり「寺院」でもありましたが、いずれかの道を選ばなければなりません。高橋広治さんの「遠州大乗院坂界隈」によると、愛宕神社は浜松県にて神社として登録しようとしましたが、天竜川の増水で使者が溺死してしまったため、登録ができなかったとのことでした。そのため、西新町の愛宕神社は、明治初期に神仏分離令の影響を受けることがなく、江戸時代の神仏混淆の信仰形態がそのまま現在まで残ったのです。愛宕勝軍地蔵様がご本尊として現存するきわめて貴重な「神社」となったのです。生前に高橋氏に伺ったところでは、わざと溺死したということにして届出をしなかった可能性もあるとのことでした。西新町の先人たちには「時代が変わっても、町を護ってきてくれた仏様も大事にしたい、今までの信仰形態を変えたくない」という気持ちがあったのかもしれません。明治23年には神谷家によって鳥居が寄進され、明治30年には町内有志によって灯篭が寄進され、神社としての体裁が整えられました。

ところで、2004年には「紀伊山地の霊場と参詣道」が世界遺産に登録されました。世界には、宗教の違いから血で血を洗う争いをする地域や国もあるなかで、日本の紀伊山地では、仏教(真言密教・高野山)、修験道(金峰山寺・大峰山寺、熊野三山)、神道(丹生都比売神社、熊野三山)が、お互いの教えの違いを認め合い、敬意を持ちながら、共存・共生しており、その点がユネスコから高く評価されたと言われます。丹生都比売神社には僧侶だった人が神様として祀られ、高野山には丹生都比売神社の神様が祀られています。「なんでも混ぜてしまったうえでどちらかが優位に立つ」ような信仰は認め合えないかもしれませんが、「違いを認め合いつつ共存する」、そのような江戸時代、いや、古代からの日本人の信仰や精神が世界から評価されたのだと思います。今こそ、このような明治以前の日本人の精神や姿勢も大切に「保守」していきたいと思います。

小山展弘