NEOぱんぷきん 2017年10月号 好きです「遠州」!
今月号から連載の機会をいただくこととなりました。地域情報誌、郷土史誌でもある「NEOぱんぷきん」さんでの連載ですので、遠州地域の文化、歴史、伝承、町づくりについて感じたことや考えたことなどを中心に、高山修一さんの「あした天気に」や小林佳弘編集長の「編集長のひとりごと」のように、時々、時事的なことも取り上げながら、書かせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。
さて、初回は、私の実家がある磐田市中泉の西新町にある愛宕神社をテーマにしたいと思います。愛宕神社は町内外から「あたごさん」との愛称で親しまれ、現在も公民館があり、府八幡宮祭典の「志組」の屋台の格納庫もあるなど、西新町の中心です。また、私も、子供の頃から、自治会、子供会、お祭りの先輩方が企画してくださる愛宕神社の夏祭りはとても楽しみでした。西新町の「あたごさん」「あたごさま」は、一見、どこの町にもある「鎮守様」のようですが、調べてみると、すごい由緒を持った神社であることがわかりました。
磐田市西新町の愛宕神社は、平行次(平行盛の次男)が、壇ノ浦で滅んだ平家の菩提を弔うため、自ら修験宗(山伏)となり、諸国放浪の後、中泉の地を選んで京都愛宕山より愛宕勝軍地蔵菩薩様を勧請したことに始まると、中泉町誌や大乗院三仭坊の由緒書にはあります。当初は、修験寺院である大乗院の本尊、または一坊の本尊として創建されたのではないかと考えられます。また、徳川家康公が中泉に御殿造営の際に御殿の東北を小笠山三仭坊に、北西を大乗院に護らせたと伝えられます。高橋廣治さんの「遠州大乗院坂界隈」によれば、東海道の西からの侵入を防ぐ役目も命ぜられたとのことであります。いずれにしても、平家や徳川家康公にゆかりのある、大変な由緒ある神社であることに間違いありません。
徳川家康公は、愛宕神社・愛宕将軍地蔵菩薩を大変崇敬しました。江戸にも芝に愛宕神社を勧請していますし、東照宮のある久能山山頂にも愛宕神社があります。神仏習合の愛宕将軍地蔵は、足利尊氏公をはじめ武家に「武神(武仏?)」として崇拝されたといわれ、家康公もこの影響を受けたのかもしれません。
関ケ原の戦い、大阪夏の陣、冬の陣という徳川家康公にとっての大きな戦いの前には、家康公は中泉御殿にて作戦を練り、諸大名に書簡を送り、指示をだしたと言われています。三仭坊の由緒書には徳川家康公が戦勝祈願を行ったとあり、そのことを考えると、軍議の合間の気分転換に、鷹狩の前後に、愛宕神社様にもお参りにきたことは十分に想像できます。あるいはいよいよ西上するに際して、東海道に面する愛宕神社様にも戦勝祈願に訪れたのではないかと想像することも不自然なことではないと思います。中泉御殿とともに、西新町の「あたごさま」は徳川家康公ゆかりのパワースポットと言えるかもしれません。
皆様の近くの何気ない鎮守様にも、意外なヒストリーが隠されているかもしれません。ぜひ皆様も、今一度、そのような目で身近な町のありふれた風景に目を向けてみてはいかがでしょうか?そのようなところから町づくりや地域おこしは始まるかもしれません。次回は、この西新町の愛宕神社に秘められたもう一つのヒストリーをお話ししたいと思います。
小山展弘