NEOぱんぷきん2023年9月号「好きです遠州」
「遠江国分寺と万葉集、今昔物語、日本霊異記が結びつく古代磐田のストーリー」
NHKの連続テレビ小説「舞いあがれ!」で引用された、万葉集の「君が行く 道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」という和歌は、奈良の都から越前国味真野に流された中臣朝臣宅守を慕い、再会を願って都に残った妻の狭野弟上娘子が詠んだ歌です。狭野弟上娘子の詠んだ上記の歌は、万葉集の中でもとりわけ評価が高い歌の一つです。
NEOぱんぷきん2015年3月号では、狭野弟上娘子は遠州の出身であり、同じ「弟上」の名を持ち、「磐田に七重の塔を建てた」と伝わる丹生直弟上の娘の可能性があるとの福井県越前市の「越前の里資料館・万葉館」の元館長の境宏氏の説を紹介しています。丹生氏は水銀を生産する氏族の呼称とされています。磐田や袋井、掛川には、現在でも水銀濃度が高い場所があり、豊沢に「丹生神社」の名を持つ神社があるなど、古代には水銀生産が行われ、丹生氏がこの地に住んでいたと考えられます。また、袋井から掛川にかけての地に奈良時代には佐益郡や佐野郡(さやぐん)が置かれていましたが、この時代の氏族は二重姓で呼ばれていることから、丹生直弟上は狭野直弟上(さやのあたいおとがみ)とも呼ばれた可能性があります。一方、『天孫本紀』には「佐夜直」(さやのあたい=狭野直)の祖は印幡足尼(いはたのすくね)とあり、印幡足尼は遠江国造家であることから、丹生直弟上=狭野直弟上は印幡足尼の後裔とも考えられます。境宏氏は、「丹生直弟上は水銀生産に携わった後、印幡足尼の本貫地である磐田郡に移り、国造を継いだのではないか」と推測しています。そして、奈良時代の地方豪族は自分の娘を朝廷に貢進する義務があったので、丹生直弟上の娘は都で「蔵人の女嬬」として奉仕し、中臣朝臣宅守と出会ったと推測しています。
丹生直弟上は、日本霊異記や今昔物語に「磐田寺に七重塔の建立を発願したが、実現しないままに年を取った。その娘は左手を握りしめたまま生まれ、七歳になった時に初めて手を開くと、仏舎利を二粒握りしめていた。遠江国司、磐田郡司はこれに歓喜して、寄進や労役を提供し、塔の建立に協力するよう皆に勧めた。そして磐田寺に七重の塔が出来、仏舎利を納めた」等々と記されており、磐田寺の七重の塔の建設に関わった人物とされています。「磐田寺は寺谷廃寺または大宝院廃寺であり、磐田に二つの七重の塔があった」との説もありますが、塔の遺構が発見されていないことや、七重塔建設には膨大な労力がかかることから、「磐田寺は遠江国分寺」と考える説もあります。先述の境氏は、聖武天皇はまず、天平12年(740年)に七重塔建設の詔を出し、翌年に国分寺建立の詔を出していることから、まず、七重の塔の建設の計画が始まったと考えています。そして七重の塔や国分寺、国府の建設には、全国的に、郡司や郡司クラスの豪族が大きな役割を果たしているケースが多く、それを裏付けるように天平19年(747年)には郡司への優遇策も出されていることから、遠江国の七重塔と国分寺ならびに国府建設においては、磐田郡司で、遠江国造の末裔でもあった丹生直弟上が相応の役割を果たしたと推測しています。そして境氏は、磐田寺とは「遠江国分寺の前身または遠江国分寺の別名として広く認識されていた」と考えています。文献によれば遠江国分寺は770年頃に完成したと考えられていますが、完成するまでの間、「国分寺」ではなく「磐田寺」と呼ばれていた可能性も考えられます。なお、国分寺推定寺域外の北西地区に、国分寺に先行する建物とされる掘建柱建物跡が発掘されていますが、これこそが釈迦如来などを祀ることを命じた天平9年の詔に基づいた仏殿で、丹生氏の氏寺でもあったと考えられる磐田寺の一部と推測しています。
先述の境氏は、見付に伝わる天御子神社と淡海国玉神社とで行われる祇園祭の舞車の神事や謡曲「舞車」について、再会を願い続けた中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子を偲んで始まった神事ではないかと推測しています。舞車の神事の起源を中臣朝臣宅守と狭野弟上娘子や丹生直弟上に求めることは、今後、実証的研究が必要と思いますが、磐田の古代から中世にわたる壮大なロマンのある仮説であると思います。
小山展弘