NEOぱんぷきん2023年2月号「好きです遠州」
黒坊大権現と大乗院坂―旧東海道の往来を偲ばせる権現様

江戸時代の東海道は、現在でも道路として残っているところが多く、その道筋を辿ることが出来ます。磐田市内では見付宿の西端でほぼ直角に南に曲がり、只来坂を除けば、ほぼ現在の県道56号線と重なり、磐田駅手前の「天平のまち」前の交差点まで南進します。この交差点で、ほぼ直角に西に曲がり、田町の久保川あたりまで西進し、そこから北西に曲がって天竜川を渡る「池田の渡し」を目指すルートになっています。このように東海道が大きく折れ曲がっているのは、現在の磐田駅近辺に徳川家康公の中泉御殿(冨田泰弘さんの『徳川家康公と磐田』によれば、実質的に中泉城とでもいうべき城郭であったとのこと)や中泉代官所があったためで、徳川家康公の命によるものと言われています。なお中泉代官は、浜松藩、掛川藩、横須賀藩、相良藩以外の遠州の天領を統治・支配していました。「中泉」の地名は徳川家康公が名付けたとも伝えられ、中泉の町も家康公が造営したとも言われています。なお、見付宿からまっすぐに「池田の渡し」を目指す道は「姫街道」「池田近道」と言われています。

中泉から東海道を「池田の渡し」に向かって進むと、現在の磐田市西新町で坂を下ることになります。この坂は「大乗院坂」と呼ばれ、ここには、かつて「大乗院」という修験の寺院があり、『中泉町誌』によれば、坂を中心に堂宇が点在していたようです。現在の西新町の愛宕神社は、大乗院創建にまつわる勝軍地藏堂あるいは本堂であったと考えられ、勝軍地蔵菩薩像、不動明王像、役行者像が祀られています。徳川家康公は、平安時代からこの地にあった大乗院に、中泉御殿の守備と東海道を往来する旅人、とりわけ山伏を吟味する役目を与えたと考えられています。大乗院は江戸時代初期に真言宗醍醐派総本山の醍醐寺より、三河から関東までの山伏吟味役に命ぜられ、関所を設けて任に当たったと伝えられています。西新町にも大乗院による関所があったかもしれません。その後、大乗院は菊川市の永宝寺との対立などの様々な変遷を経て、明治時代に小笠山三仭坊と合併し、現在は磐田市七軒町で「大乗院三仭坊」と名乗り、法灯を継承しています。

大乗院坂下の南側、現在の磐田化学工業株式会社磐田工場の北東の角にあたる場所に、小さな祠が祀られています。この祠に祀られているのが「黒坊大権現様」です。髙橋廣治さんの『遠州大乗院坂界隈』によれば、五輪塔の下部分が安置された祠であり、咳や発熱にご利益があると敬われています。かつては磐田化学工業の正門の西側の田の中の島のようなところの山桃の木の根元に祀られていましたが、工場建設にあたり現在地に移動しました。『遠州大乗院坂界隈』によれば「大乗院は旅人を泊めていたが、この寺に悪僧がおり、旅人を手にかけては金品を奪っていた。ある時、インドから日本に渡ってきたといわれる僧侶が大乗院に泊まったところ、その悪僧に毒を盛られて殺されてしまった。旅僧はもがき苦しみながら助けを求め、息を引き取る際に『私をこの地に葬ってくれたなら、この地の守り神となり、皆様を守り続ける』と言い残した。人々は他の僧侶とともに手厚く葬り、山桃の木を植えた」と記されています。インドから日本にきたと伝えられる僧が毒殺された後、犯人の悪僧はどうなったのでしょうか?それまでの全ての悪事が露見したのでしょうか?「他の僧侶と一緒に葬られた」との言い伝えから、何か理由があって宿泊していた僧侶を数多く毒殺したのか真相は分かりません。恨みを遺して亡くなった人を丁重に祀ると守り神となるという日本古来の怨霊信仰を感じさせるこの逸話からすれば、毒殺された僧侶が本当にインドから来たのか、さだかではないと感じます。いずれにしても現在でも11月3日を縁日として磐田化学工業の皆様や地域の皆様によって大切にお祀りされています。

黒坊大権現様と大乗院様の逸話は、東海道を多くの旅人が往来し、街道が賑やかであった様子を現在に伝えています。徳川吉宗公の時代に象が通った記録や、京都に上洛する将軍や参勤交代の大名、朝鮮通信使が通った記録もあり、歴史ロマンを掻き立てられます。

小山展弘