NEOぱんぷきん2022年10月号「好きです遠州」
龍尾神社―掛川市のパワースポットに位置する山内一豊公ゆかりの古社
龍尾神社様は掛川城の北東に位置する古社です。社名は、鎮座する御山が「龍尾山」と呼ばれることに由来します。いにしえの人々は掛川の町へと連なる山々を、この地を守護する龍に見立てました。そして現在の掛川城天守閣のある山を「龍頭山」、龍の胴体に見立てられた山を「龍胴山(現在の子角山)」、龍の尾に見立てられた山を「龍尾山」と名付けました。風水では、山々を大地の気が流れる「龍」ととらえました。大地のエネルギーが湧き出るパワースポットと考えられる場所を「龍穴」と呼び、「龍穴」やその周辺の地(「明堂」など)に神社や寺院、城郭を築きました。江戸城や平安京太極殿、天河大弁財天社、明治神宮、日光東照宮などは「龍穴」などのエネルギーが高いと考えられた地に建てられていると言われています。掛川に「龍」にまつわる地名があることは、当時の人々が、この山々を風水でいうところの「龍脈」と考えたからかもしれません。そうだとするならば、現在の掛川城や龍尾神社様は風水上のパワースポットと考えられている場所に建てられているのではないでしょうか。なお、風水の考え方では、町へと連なる山々の起点となる山を「祖山」と呼んでいます。掛川市内には粟ヶ岳や八光山、小笠山、大尾山などの霊山があり、このいずれの山も掛川市内のそれぞれの地域の祖山にあたるかと思いますが、龍尾神社様や掛川城は大尾山のほぼ真南に位置しており、秋葉山・光明山と国分寺や国府と同じような位置関係になることから、祖山かどうかを含め、大尾山と何らかの関係があるのではないかと推測します。
龍尾神社様のご祭神は素戔嗚尊様、櫛稲田姫尊様、八柱御子神様で、疫病・病魔退散、家内安全、良縁、安産などのご神徳があると信仰されています。素戔嗚尊様を祀る他の神社様の例と同様に、江戸時代までは「龍尾山牛頭天王」と称していました。龍尾神社様の創祀については明らかではありませんが、龍尾神社様に「真草」の額が残されていることから、延喜式内社の「真草神社」にあたるのではないかとも考えられています。鎌倉時代(1248年)に地頭職の忍十郎義広が「みな人も深き願ひを掛川の龍の尾山の神のみずがき」と詠んだ和歌が記録されていることから、この当時、既に鎮座していたと考えられています。戦国時代、今川氏の配下の朝比奈氏によって掛川城が築城された際に、その地の龍頭山にあった古社様が龍胴山に遷座され、その後に龍尾神社様に合祀されたとの記録があり、以来、掛川城の守護神として、歴代城主や掛川藩内の領民、東海道を行き交う旅人の信仰を集めてきました。なお、源頼家公が京都に上洛の際に道中安全祈願を行ったとの記録や、徳川家康公が今川氏真公の立て籠もる掛川城を攻めた際には、龍尾神社様にその本陣がおかれたとの記録もあります。また、豊臣政権下においては山内一豊公が掛川城主となり、土佐国に移封されるまでの十年間、この地を治め、龍尾神社様を大変尊崇しました。二代目の山内忠義公は、龍尾神社様のご分伸を高知城の守護神として大切にお祀りし、「掛川神社」と号しました。ご分神勧請の際に忠義公は龍尾神社様にソテツと土佐の石を奉納し、それらは現在も境内に残されています。また、山内家は参勤交代の際には必ず当社に参拝したと伝えられています。
10月には掛川市内では「掛川祭」が盛大に開催されます。「掛川祭」は龍尾神社様のほか、利神社様、神明神社様、池辺神社様、白山神社様、津島神社様、貴船神社様の氏子の合同のお祭りです。祭典期間中には各町の屋台が引き回され、手踊り、大名行列などが披露され、見物客を楽しませるとともに、城下町の風情を現在に伝えています。「掛川祭」は、3年に1度を「大祭り」、間の2年を「小祭り」と呼んでいます。「大祭り」では、お神輿のお渡りが行われ、「かんからまちの獅子」「仁藤町の大獅子」「西町の大名行列」の三大余興が繰り広げられます。『掛川のマチと祭礼』によれば、「掛川祭」は当初、瓦町の不路獅子舞(かんから獅子舞)を先頭に間に踊りや練り物を挟み、紺屋町の獅子神楽(木獅子)を殿として町中を練り歩いたのではないかと考えられています。『掛川市史』によれば、「獅子」は厄除け、清めの神楽でもあることから、牛頭天王社の祇園祭の影響も考えられています。
小山展弘