NEOぱんぷきん2022年7月号「好きです遠州」
松ヶ岡旧山﨑家住宅-掛川市の迎賓館ともいうべき歴史的建築物と「偕楽園」の拓本

掛川城から逆川伝いに西へ向かった十王地区に、通称「松ヶ岡」と呼ばれている「旧山﨑家住宅」があります。市民が掛川市に提言した「松ヶ岡プロジェクト(答申)」の資料によれば、この旧家の敷地内には見事な赤松の大木が多くあったことから「松ヶ岡」と呼ばれているとのことです。屋敷の母屋は安政3年(1856年)に建てられ、建築当時のままに残されています。屋敷地には、赤松のほか、池、多数の灯篭などがある素晴らしい庭園があります。建物の周囲には堀が巡っていますが、この堀が何のために造られたのは諸説あるようです。建物の西側の堀は池のように見立てられており、池の端にモミジが植えられていて、秋には見事な紅葉が見られ、掛川のみならず遠州でも有数の名所であると思います。

「松ヶ岡」は、明治11年の明治天皇の北陸東海御巡業の際に行在所となりました。「松ヶ岡」は、当時、掛川の町中では最も格式の高い邸宅でした。明治天皇が宿泊された部屋は家人であってもが使うことができなくなり、大正初期に奥座敷を付け足して、家人はそこに住みました。この奥座敷は、床の間の床板が一枚板で作られるなど、当時の最高の木材で建てられています。また、母屋から奥座敷へと至る廊下の天井はアーチ型に造られ、珍しい形をしています。奥座敷の隣には金庫蔵があり、珍しい部屋の配置になっています。

山﨑家は掛川藩の豪商です。1700年代半ばに油商で成功し、その後、葛布なども商い、掛川藩の御用達商人となりました。第四代当主の山﨑万右衛門(晨園)は掛川藩校教授の松崎慊堂に師事し、学問に秀で、文才豊かな人でした。表座敷には晨園の号である「以善堂」の額が掲げられています。晨園は、掛川藩の「偕楽園」開園や藩校の設立に多額の支援を行いました。その後、山﨑家は、新田開発、金融業にも乗り出し、明治初年には静岡県で二番目の大富豪と言われました。第八代当主の千三郎は、初代掛川町長となると大井川疎水(現在の大井川用水)の計画、東海道線の誘致、掛川街道をはじめとする道路整備を行いました。そして、掛川銀行の創設にも関わり、茶の輸出も手掛けました。山﨑千三郎の甥の山﨑覚次郎は、文部大臣や京都帝大総長を務めた岡田良平、文部大臣や宮内大臣を務めた一木喜徳郎とともに掛川市倉真の「冀北学舎」に学び、ドイツ留学の後、東京帝国大学経済学部創立に関わり、第二代経済学部長を務め、日本の金融論や貨幣論の先駆者として活躍しました。

ところで、屋敷内には、水戸の「偕楽園」の石碑の拓本が展示されています。水戸の「偕楽園」は大変有名ですが、掛川にも「偕楽園」という名の庭園があったことはあまり知られておりません。郷土史家の浅井保秀さんによれば、掛川の「偕楽園」は水戸の偕楽園が完成する36年前に、時の藩主の太田資順候が「身分に関係なく皆が楽しめるように」との願いを込めて、現在の南西郷久保沢のあたりに造園したと言われています。残念ながら掛川藩の「偕楽園」は、天保の飢饉の際に維持することができず荒廃してしまいました。しかし、「偕楽園」の茶室は掛川城内に移築され、明治元年に掛川市日坂の「川坂屋」に譲られたと伝えられ、現在も見学することができます。掛川特産の葛を塗り込んだ床の間の葛壁も見事です。また、この茶室の床柱は、水戸の「偕楽園」の好文亭茶室「何陋庵」の床柱と同じツツジで造られており、同じ木を二分したものだと言われています。また、掛川藩の藩校は、藩主太田資愛候によって1802年に掛川城内の北門の側に創設され、始め「北門書院」、次に「徳造書院」と命名され、後に「教養館」と称しました。「教養」という言葉は、この藩校の名として初めて使われたと言われています。「教養館」では、武士だけでなく、町人や農民の子も学ぶことができたと伝えられています。

掛川市では、「士の掛川城、農の報徳社、町人の松ヶ丘」という有形・無形の文化財を大切に保存して後世に伝え、現代の子供たちへの教育も含めて活用しています。これを市民の協働によって担われているところが素晴らしく、そこには「報徳」の息吹を感じます。

小山展弘