NEOぱんぷきん 2020年11月号 好きです「遠州」!「天下万民のための御謀反」―今川了俊の思いは今川義元や徳川家康に受け継がれたのか?

「好きです遠州」でたびたび紹介している今川了俊は、足利幕府に仕え、九州探題として24年間も九州を支配し、南北朝の統一、倭寇の取り締まり、勘合貿易に貢献した武将です。川添昭二氏の『今川了俊』によれば、九州探題在任の頃の了俊の認識は「南北朝動乱が酷烈に示した社会的秩序と人倫関係の無政府状態を回復する手段は、九州宮方を…討ち尽くして政局を収拾する…政治構造を治者(将軍)と被支配者との上下関係に整えることが政治と人倫を破局から救う原理…将軍に対する足利一門・守護大名・国人層の無媒介的な直接の忠を要請」「将軍に対する直接の忠は、現実の私のため、家のためになり、武士としての弓矢のための面目にもなり、ひいては乱世の醜現実に終止符を打つ天下のための明るい未来像をも約束する」というものだったようです。また儒学の素養もあった了俊は、儒学の教えを実践しようとしました。父である今川範国の家督相続の求めを三度も断り、長子相続にこだわりました。儒学の説く「礼」に従えば、武士も民心も安定し、乱世は次第に秩序を取り戻すと愚直に信じていたと推測します。このことは一方で、了俊が、人間の表裏を見通し、硬軟使い分けて柔軟に対処することに欠けていたことを暗示するようにも感じます。「水島の変」で少弐冬資を暗殺し、大友氏や島津氏の離反を招いた件はその典型と思います。

1395年、今川了俊は足利義満により九州探題を突如罷免され、失意のうちに遠州へと下ります。しかも「駿河半国を与える」という足利義満の陰険な「恩賞」は今川家中に摩擦を引き起こします。駿河守護の今川泰範はこれを不服として了俊を讒言します。この時の了俊の無念はいかばかりであったでしょうか。ひたすら室町幕府に献身したにもかかわらず、使い捨てのような扱いを受け、「親類等の不義」の目にまで遭ったのです。今川泰範は、了俊が三度も家督相続を譲ったからこそ今川家当主と駿河守護になれたのに、不満があるのはやむないとしても、了俊を讒するに至っては、運命の皮肉を感じたのではないでしょうか。信じてきたものが音を立てて崩れていくように、了俊は感じたのではないでしょうか。

1399年、了俊は応永の乱を起こした大内義弘に呼応します。しかし、大内義弘は堺で戦死し、乱は失敗に終わります。了俊は自決も考えますが、今川泰範の必死の助命嘆願により、命だけは許され、以後、隠居の身となります。隠居した了俊は、多くの著作に励みますが、そのうちの一つが「難太平記」です。「難太平記」は、「太平記」の今川家に関する記述を論難し、今川家が南北朝争乱に果たした役割を後代のために書き残すという体裁を取っています。当たりさわりのない文章が多いのですが、応永の乱の記述だけは、激しい口調で足利義満を非難し、「天下万民のための御謀反」と言い切ります。この一言には、九州探題を罷免されて以来、悩み、苦しんだ了俊の思いが込められているように感じます。先述の川添昭二氏も指摘していますが、了俊の考えは、天皇家や足利将軍家への忠義を善とする考えから「天下万民のための」まつりごとこそ善とする考えに変化したように思います。そして、天下万民のためのまつりごとから外れるならば幕府を放伐してもよいという姿勢、そして、その意味において幕府の権威を認めない姿勢をも内包していたと思います。

子孫のために書かれた難太平記は今川家に代々伝えられます。今川義元は「自分の力量を以て国の法度を申付く」という幕府権威を認めない戦国大名宣言ともいうべき文言を「今川仮名目録」に残しています。また、今川家の庇護をうけ、太原雪斎の指導を受けた徳川家康は「天下は一人の天下に非ず、天下は天下の天下なり、たとへ他人天下の政務をとりたりとも四海安穏にして万人その仁恵を蒙らば、もとより家康が本意にしていささかもうらみに思うことなし」と遺言しています。天道思想の影響も考えられますが、「難太平記」の了俊の姿勢に似ているようにも感じます。静岡大学名誉教授の小和田哲男先生によると「今川義元や徳川家康が難太平記を読んでいた可能性は考えられるが、それがかれらの人間性に影響を与えたことを記す文献はない」とのことですが、今川了俊の思いが、今川義元、太原雪斎、徳川家康へと受け継がれ、徳川泰平の世の基点の一つになったのかもしれません。

小山展弘