NEOぱんぷきん 2020年9月号 好きです「遠州」!菊川市の井成神社―加茂井水を引き豊かな水田を開墾した今川義元公の武将の物語

今川義元公は領国統治に大変優れた大名でした。『戦国大名と分国法』(岩波書店)の中で清水克行教授は「今川氏ほど世間一般に流通するイメージと研究世界の評価がかけ離れている大名はいない」「『今川かな目録』は東日本で最初につくられた分国法。領内の検地実施は史上二番目、印判状を領国統治に用いたのは史上初。楽市令は史上二番目。直訴を奨励して目安箱を設置したのも今川氏が最初」「『今川かな目録』は戦国大名の分国法としては最高レベル」「『甲州法度』は全二十六条のうち十二ヶ条までが『かな目録』とほぼ同じ内容…その内容は『今川かな目録』の無断引用(コピー&ペースト)であり…今川家は少なくとも桶狭間前夜までは東日本最強の大名であったと断言していいだろう」とまで書いています。今川義元公は、領内の制度を整え、経済を豊かにして多くの兵を養い、領土をさらに広げる「富国強兵」の国を築いたのです。なお、戦国時代では、江戸時代の武士のイメージと異なり、命を顧みず主君に忠義を尽くす武士は、それほど多くはいなかったようです。にもかかわらず、桶狭間の戦いでは、義元公が討たれた後も奮戦して討死した松井宗信公や山田新右衛門公、義元公の首を取り返した岡部元信公などの勇将・義将がおり、彼らに命を賭けさせる、命を捨てさせる魅力を義元公が持っていたのだろうと思います。重臣の明智光秀公に裏切られて命を落とした織田信長公と対比することもできるかもしれません。また、磐田市の見付に「都市自治」を認めたことも、全国でも稀有な特色ある領国統治と言えるでしょう。

ところで、菊川市加茂地区の北端には「井成神社」があり、今川義元公の武将であった三浦刑部公が神として祀られています。「加茂井水・井成神社由緒」によると、今川家滅亡後に武士を捨てて農民となり(桶狭間の戦いに従軍し、戦の後に農民になったとする説もあります)、名前も「清水福右衛門」と改名し、加茂の地に移り住んだと言われています。一念発起して「加茂井水」の掘削に生涯を捧げ、加茂地区の発展の礎を築いた人物です。

三浦刑部公がこの地に移り住んだのは、旧小笠町エリアの丹野地区に井水を引く事業に関わったことがきっかけではないかと推測されています(小和田哲男名誉教授によると「今川氏真公の命で旧小笠町丹野池から丹野地区に井水が敷かれた」という木簡が残っているそうです)。丹野開拓の際に加茂の地形を検分する機会があり、加茂の開拓を志して移り住んだのではないかと考えられています。加茂の地は、広い平地であるにもかかわらず、水に乏しかったために作物は育たず、生活用水も得にくい地でした。そこで、三浦刑部公は菊川上流部から加茂に用水を引くことを考えました。まず測量に取り掛かりましたが、時は戦国時代、他村に出入りすることは警戒され、なかなか測量は進みませんでした。三浦刑部公は、ある時は狂人になりすまし、ある時は凧を揚げてわざと糸を切って凧を拾いに行くふりをして、こっそりと地形を観察し、測量したと言い伝えられています。土地取得や施設の築造にも努め、一五八一年に領主である横須賀城主の大須賀五郎公の許しを得てようやく井水の掘削が始まり、十三年の歳月を費やして一五九四年に加茂井水は完成しました。全長七六五〇メートルにも及ぶ用水で、加茂井水の恩恵を受ける水田面積は120ヘクタール、石高は二千石にのぼり、この地域で二番目に石高の高い村となりました。また、村人は悲願であった豊富な生活用水も得ることができました。昭和40年に大井川用水が完成したため、加茂井水はその補完的用水に役割を変化させましたが、現在でも利用されています。

三浦刑部公は、残念ながら加茂井水への通水を見ることなく、亡くなってしまいます。しかしその志は二人の遺児や村人たちに受け継がれ、加茂井水は完成に至りました。加茂地区は現在も豊かな穀倉地帯であり、最近は住宅街としても発展しています。主君の今川義元公の討死や桶狭間の戦いの敗北、主家である今川家の滅亡という困難と悲しみを乗り越えて井水を掘削し、加茂の地の開墾に生涯を捧げた三浦刑部公や先人たちの遺徳を偲ばずにはいられません。なお、他の地区においても、きっとこのような多くの先人たちがおられて、その多大な努力によって私たちの町の現在があることを忘れてはならないと思います。

小山展弘