NEOぱんぷきん 2020年8月号 好きです「遠州」!「遠州の霊鷲山」大日山・霊是山から流れ出る太田川の恵みによって開かれた遠江国

高校生の頃、静岡県の地図を見て「金剛院というお寺は、どのような理由で山深き地に建てられたのか」と関心を持ったことを覚えています。大日山金剛院は大日如来をご本尊とし、行基菩薩が718年に開山した寺と伝えられます。大日如来は真言宗の御仏壇のご本尊であることが多いですが、遠州の寺院のご本尊として祀られていることは多くはありません。戦乱で伽藍は一度荒廃しますが、三倉家の保護もあって1616年に専盛和尚により復興され、繁昌坊大権現を当山鎮守としてお祀りするようになりました。立派な仁王門は天保八年の建立で、小ぶりかもしれませんが老杉の中に建つ山門は高野山の大門を彷彿とさせるものがあります。江戸時代、金剛院は、真言宗から曹洞宗に改宗された秋葉山の御札のご祈祷を担いました。金剛院の御役目は増え、一山は繁栄したとのことです。明治40年の大火では多くの堂宇が焼失しました。再建された現在でも立派な堂宇が立ち並んでいますが、明治の大火の前はそれ以上に立派だったと伝えられています。

この地に金剛院が創始され「大日山・霊是山」と名付けられたのはなぜでしょうか。実は、古代、遠江国は太田川流域を中心に発展しました。天竜川流域は氾濫が大きく、古くから水田耕作に向かない砂利層で荒地が多かったのです。一方で、太田川流域(原野谷川流域も含む)は、水量は穏やかで土壌も肥沃でした。太田川両岸には古代より人が集住し、水田耕作が営まれ、古墳も多く造られました。また、古代・中世には浅羽から於保、今之浦にかけて「大之浦」という内海が広がっていましたが、太田川はこの「大之浦」に流れ込み、原野谷川ともども横須賀湊(現在の弁財天川河口)で外海に注いでいました。そして、「大之浦」の畔にあった国府は、遠江国内の各地と水運でつながることができました。まさに太田川は遠江国に豊かな恵みをもたらす母なる川だったのです。『森町史』や郷土史家の北島惠介氏の「遠江国府と一宮」(『磐南文化』第44号)によれば、大日山・霊是山は遠江国に恵みをもたらす太田川の水源霊山、水分の山として崇められたとのことです。また、両山は遠州の密厳仏土・霊山浄土の蓬莱郷であり、曼荼羅の中心である大日如来の座す須弥山(大日山が金剛界、霊是山が胎蔵界)として位置付けられたと考えられています。法華経に「衆生劫尽きて大火に焼かるると見る時も、我がこの土は安穏にして天人常に充満せり」「時に我及び衆僧、俱に霊鷲山に出ず」とあります。お釈迦様の「娑婆浄土」とは、霊鷲山という特定の地ではなく、「我々の生きるこの世こそが浄土」という解釈が正統的であると思いますが、一方で、お釈迦様が仏法を説いた実在の霊鷲山は、地上に災害や兵乱が起こっても、地上の理想郷・浄土としてあり続け、再びお釈迦様が現れる「霊山浄土」であるとも考えられました。『森町史』や前掲論文等の中で北島惠介氏は「インドの霊鷲山はマガダ国の都である王舎城の東北に位置するが、国府から見て東北方向に位置する大日山と霊是山を遠江国の須弥山や浄土として位置づけ、大日山両界寺院を建立したのではないか。三河国府と鳳来山、鳳来寺も同様の位置関係にある」とお考えになっていますが、私もそのように思います。

『森町史』等によると「太田川の水神として崇められたのが天宮神社」とのことです。天宮神社は「雨宮」と記されたものもあり、水運の神でもある宗像三女神様が祀られています。程よい雨と豊かな水は農業や水運をはじめとする諸産業の要であり、祈雨や止雨の祈りがいかに大事であったかを物語るものです。島田市の大井神社は、水の女神様を御祭神としつつ、大井川そのものもご神体としていますが、天宮神社にも宗像三神様とともに太田川をご神体とする信仰が古くはあったかもしれません。小國神社の神が降臨されたという本宮山は天宮神社の神体山ともされ、小国神社と天宮神社には両社一対を成す十二段舞楽が奉じられ、小國神社が金剛界、天宮神社が胎蔵界を表すとも言われています。『森町史』等によれば小國神社とともに神階が上がった「芽原河内神」は天宮神社の旧社名との説もあります。

まさに森町は、太田川の水源霊山のある地として、また、神霊の天降る聖なる山のある遠州の奥座敷として、「遠州の聖域」たる位置付がなされる地であると思います。

小山展弘